随筆 – 発明の現場
組織と個人、木原研究所の事例
ソニーは大企業である。当然のことであるが、大組織による開発方式によって、商品開発を推進している。個人の能力に依存する方式ではない。
ただそのソニーに昔、存在した木原研究所だけは異なる。この木原研究所は所長の木原信敏氏の功績と能力を高く評価したソニーが1988年に創設したもので、冠研究所の代表例といってもよい。
今はない。
この木原氏はその業績があまり幅広くは知られていない。ソニーの前身、東京通信工業時代から、テープレコーダの開発、そのトランジスタ化、トランジスタ・ラジオとテレビの開発、工業用VTRの開発、世界初のカセット方式のビデオテープレコーダすなわちベータマックスの開発等をすべて手がけてきた超人とも天才ともいえる人物である
ともかくソニーが、世界の市場に提供し高く評価されたエレクトロニクス製品の開発のほとんどに関わり、その中心役として活躍したその貢献は計り知れないほどである。だからソニーも木原氏が専務時代に木原研究所を設立して、いつまでも木原氏の思うままに研究開発をすることのできる組織と環境を作った。彼の能力と貢献を一番理解しているのがソニー自身なのである。
亡くなられたソニーの創設者であり、戦後を代表する技術経営者と評価された井深氏は「私の履歴書」の中で次のように木原氏を評価している。
「木原君というのはたいへん器用で、頭のきれる人で、こちらから考えを一通り述べると翌日はもっとよい考えのものが手づくりでできあがっているという神様のような人である。戦争後、早稲田の専門部でちょっと私が教えた関係で引っ張って来たのだが、当社の磁気テープ、録音機の初期のころの試作全部、日本での最初のステレオ・レコーダー、トランジスタ・ラジオの第1号機、トランジスタ化テレビ第1号機、日本でのビデオレコーダー(録像機)第1号機、同じくトランジスタ化した小型機等々も全部同君が手がけたものであった。」
あの伝説的技術経営者の井深氏から「神様のような」とまで評価されるのであるから、いかに木原氏の能力が高く、その貢献が大きいものであったかがよく理解できる。木原氏の功績をたたえ、しかもその能力と経験をソニーの後継の技術者に伝えるためのあって、木原研究所を設立したのである。しかしその木原研究所も今はない。
考えてみれば、エレクトロニクスに関する新技術商品で常に世の中をリードし、時にはモルモットとまで評され、評価されてきたソニーという企業のよき時代の象徴であったのかもしれない。また企業における技術開発がこうした木原氏のような天才的な能力に依存する時代から大きく変わりつつあることの現れであるかもしれない。
今はソニーという会社がこのエレクトロニクスの分野の開発で一人の天才的能力をもつ技術者に依存する状況にはない。だから個人の名前をつけた研究所などかえって誤解のもととなるだろうし、研究組織全体の合理性を優先するというのもよく理解できる。組織的にスケジュールに沿って各部署と連携しつつ開発する時代なのである。だが開発成功事例をみていくと、やはりその開発のポイント、最も重要なところは才能ある個人が関わっていることに気付く。
それだけにいささかさびしい思いもする。技術者は地味なものである。個人の名前が晴れ晴れしく表に出る機会は少ない。そのなかで木原氏はまさに天才であったし、ソニーの中心的技術者であった。もう再びこうした天才は現れないだろう。日本企業にはこれからはもう技術者個人の名前を付与した研究所というものは存在しないこととなるのだろうか。
(後楽子)
トツキ200811
『特許ニュース』の平成20年11月7日号の【随筆:発明の現場】に書かれていた木原信敏及びソニー木原研究所に関する記事です。
父のことをとても好意的に書いてくださっていて、嬉しかった反面、そうかな?と思った面もありました。
それは、昔は一人の天才的能力をもつ技術者に依存して開発していられたが、今はそうはいかない、といった内容がみうけられた点です。
組織的に各部署と連携しつつ開発する、というのはソニーの黎明期からすでにあり、基本的にはそうやってチームで開発がなされていたようです。
そして父も様々な部署の中でその部署の上司に命令されて淡々と仕事をしていました。
ただ、好奇心から色々な物を試作しては、井深さんや盛田さんに見せているうちに、通常の仕事とは別の発注が増えていき、その出来がよかったために、正式採用されていった、というのが本当だったようです。
そのため、若造がチームに属さず上層部と直でやりとりして!と快く思っていない人達が社内にいたとかいないとか。。。
父は若い頃、そういった変わった状況のせいで、社内で何度か嫌な思いをしたらしいのですが、そのたびに、井深さんがフォローしてくれたそうです。
それゆえ、父は心ゆくまで開発に注力することができ、最後の最後まで井深さんへの感謝の気持ちを忘れませんでした。
だから、戦後すぐだったからとか、初期のソニーだったから可能だったわけではなく、父のようなちょっと変わった技術者がいて、それを理解してひろいあげる井深さんや盛田さんのような経営者がいれば、現在でも十分同じ状況は作り出せると私は思っています。
父に関しての記事を読んでいると「昔はよかったねぇ」的に書かれていることがたまにあるので、当時のソニーだって充分組織的でしたよ(まあ、井深さんと盛田さんがトップの組織なら良いには違いないですが笑)、と私見を書かせていただきました。
(2018/05/08 木原智美)
2018年5月9日 5:39 AM
私は小池健一と申しまして、ソニーで主に人事系を歩んで38年、還暦を迎えた今春から関連会社に再雇用していただいています。全くの事務屋ですが、木原さんには一方的に憧れというか思慕の念を抱いて38年間過ごして来ました。というのも、木原さんは私の高校大学の大先輩に当たる方なもので。都立(府立)二中から早稲田大学に進まれたと伺っています。井深・盛田さんを初めとする創業期以来のリーダー陣は、折にふれ社員を鼓舞して来ましたが、木原さんは寡黙な方で、しかし圧倒的な実力でソニーの技術を支えてこられました。男は黙って…というタイプの方とお見受け致します。しかし発明家井深さんをも唸らせる天才技術者と誰もが記憶しております。 記事を拝見して思わず筆を取らせていただきました。
2018年5月9日 10:35 AM
小池さま、
コメントありがとうございます!
父の考え方、働き方がどなたかの情熱のきっかけになればと思い、記録を集めはじめました。
地道な作業なので、こうしてコメントをいただけると、とても励みになります
2018年5月9日 9:49 PM
記事を読ませていただき、私も「ん?」と、木原智美さんと同じような感想を持ちました。
現在でも、個人の名を付けた研究所はなくとも、木原さんのような技術者を大切に思い、能力を活かせる環境はできるはずだと思います。
例えば現在の日産のGT-Rという高級車は、そのエンジンを組み上げた技術者の名前がエンジンのプレートに刻まれているそうです。
技術者にとってこれほど嬉しいことはないでしょう。
時代は流れ、大量生産の時代から、また以前のように個の技術を大切にする時代になりつつあるように感じます。
規格品のレンガはキレイに積み上げられますが、もろいです。
反面、バラバラサイズの石垣は、組み上げられると強固です。
一人一人異なる能力の個が組み合わさったとき、スゴイものができる、と思うのです。
2018年5月10日 8:25 AM
曽我さま、コメントありがとうございます!
この記事は今から10年前の記事で、父の存命中でもありました。
当時は今よりもずっと、世間が暗中模索な感じで、本当に大切なものをかえりみる余裕がなくなっていたように思います。
本当はこうしたいのに、こうすべきだろうに、という人がたくさんいたのに、そうではない方向に進んでいて。
今は、こうしたいからこうするんだ!という意識の人が増えてきた気がします。
その意識があれば、こんなすごいことができるんだよ、というお手本を、様々な角度から見せていけたらなと思っています。